月齢
女性向けブログ。ネタ語りや小説など。ルーク至上主義。
月さまリク「鼓膜を揺らす怨嗟の声」の続編です。
被験者全般に厳しめとのことで、被験者に救いがありません。
真っ黒なスレルク。シンルク色は薄いです。
ローレライの鍵など、いろいろと捏造要素過多。
注!被験者厳しめ(同行者&アッシュ含)
針と糸で唇を縫い合わせるだけでは、きっと足りない。
ルークは鏡の前に立ち、翡翠の目をゆっくりと瞬かせる。宿の窓から差し込む月の光が、青白く、ルークを照らした。
目は口ほどに物を言う、と聞いたことがあるから、瞼も縫い合わせなくては。
彼らは──被験者は、レプリカの意思も意志も必要としないから。だから、隠さなくては。塞いで、閉じて、隠さなくては。
知られないよう、悟られないよう、隠さなくては。
(俺にも心があることを、知られちゃいけない)
諾々と、ただ諾々と言うことを聞くお人形。物言わぬ人形でなくては、ならない。
そうでなければ──殺されてしまう。目的も果たせぬまま、本当に人形のように殺されてしまう。意志を奪われ、身体の自由を奪われてしまう。
実際、それは可能なのだ。完全同位体の被験者──アッシュには、それが出来る。
思考する自由も行動する自由も奪われたら、自分は生きているとはもはや言えないだろう。
(だけど、俺はまだ死ねない)
まだやることが、ある。それが終わるまでは、死ねない。
それが、終わったら。
鏡の中のルークが、歪んだ笑みをひっそりと零した。
*
レムの塔の入り口で、ルークはくるりとジェイドたちへと振り向いた。後に続き、塔に入ろうとしていたティアたちが訝しげに足を止める。
怖気づいたのか、と一瞬、彼らの目に憤りや嘲りが過ぎったのを、ルークは見逃さなかった。それはすぐに消え、同情や憐憫になったが、ルークにとっては、大差はない。
どちらも腹立たしいものであることに変わりはないし、彼らが自分を見下していることにも変わりはない。レプリカという存在を、彼らは一様に蔑んでいる。口ではそんなことはない、と否定するだろうが。
内心の思いを一切、気取られることなく、ルークは淡く儚げに微笑んだ。
「ここから先は、俺一人で行くよ」
「何言ってるんだ、ルーク」
「ええ、ガイの言うとおりです。私たちには、貴方の最後──いえ、貴方が瘴気を中和する瞬間を見届ける義務がある」
眼鏡のブリッジを押し上げ、ジェイドが辛そうに眉を僅かに寄せる。最後という言葉に、ガイやティアも苦しそうに呻き、顔を伏せ、ナタリアやアニスが顔を蒼ざめさせ、視線を逸らす。ミュウだけがルークから目を逸らさず、じ、と見つめ続けていた。つぶらな瞳に涙がいっぱいに溜まり、ルークの足にしがみついた。
ティアたち人間を心の中では冷めた目で眺めながら、顔には淡い微笑をルークは刻み続けた。
ゆるりと首を横に振り、殊勝な態度を装い、目を伏せる。
「俺がこれから起こすのは大規模な超振動だ。側にいたら、みんなのことを巻き込む可能性だってある。特にナタリアとティアは第七音素師だしな。レプリカたちだけじゃなく、二人からも第七音素を奪ってしまうかもしれない」
そんなことになったら、二人は死んでしまうかもしれない。
そんなのは、嫌なんだ。
ルークは辛そうに顔を歪め、ティアとナタリアの二人を見つめた。二人の目に涙が浮かぶ。ルーク、とティアが肩を震わせ、走り寄ってきた。
胸に飛び込んできた身体を受け止め、ティアの軍人らしからぬ剥き出しの肩に手を添える。神託の盾騎士団の軍服は理に適っているとはとても思えないと、ルークは改めて思う。
本当は今すぐにでも突き飛ばしてやりたいところだが、嫌悪を隠すことなど、お手のものだ。
ティアが涙に濡れた青い目で見上げてきた。潤み、震える眼差しに悲しげな笑みを向ける。
「ジェイドたちのことも超振動で分解しちまうかもしれない。そんなの、嫌なんだ」
だから、ここでお別れだ。
さよなら、とルークはティアの肩を優しく押しやった。ティアが嫌だと言うように、ルークの腕を縋るように掴む。
そんなティアにジェイドが歩み寄り、肩にぽん、と手を置いた。首を左右に振るジェイドに、ティアがわっと泣き出し、ナタリアのもとへと駆け寄った。
ミュウ、お前も、とルークはミュウを抱き上げ、押しやろうととしたが、ミュウは頑なに首を振り、離れようとしない。ミュウ、と咎めるように呼んでも、離れない。
「ボクだけは、連れて行って欲しいですの」
ミュウの小さな目の奥には、一心にルークを慕う心と、ティアたちへの怒りが見て取れた。ティアがいらっしゃい、ミュウと呼びかけても、ミュウは振り向こうとしない。
ルークは苦笑い、ミュウを腕に抱いた。わかったよ、と頷けば、ミュウの顔が輝いた。そんな、とティアが哀しげに呻く。ミュウに拒絶されたことが堪えたらしい。
ミュウはとっくにティアのことなど見放していたのに、気づいていなかったおめでたい頭に、今更ながらに辟易する。
(くっだらねぇ)
悲劇のヒロインのつもりだろうか。しくしくと泣くティアに釣られて涙を流すナタリアやアニスにも、ルークは内心、呆れ返る。
本当に悲しいのなら、もっと追い縋って見せればいい。一緒に逃げようと言えばいい。私の第七音素も使ってとでも、言えばいい。
だが、彼らの誰からも、そんな言葉は出てこない。レプリカたちと心中するつもりなど、どうせ端からないのだ。そんな考えすら浮かんでいないはずだ。
彼らは疑問にも思っていないに違いない。レプリカたちを搾取し、犠牲とすることを。自分たちが、被験者が生き残るためには、当然の選択だとでも思っているのだ。悩む余地すらきっとない。
そもそも瘴気が発生した原因は、被験者たちにあり、瘴気を中和する方法を考えることを二千年もの間、放棄し続けてきたのも被験者たちだというのに。
それとも、レプリカこそが、その方法だとでもいつか結論づけるつもりだろうか。ああ、有り得るかもしれないなぁ、とルークは忌々しく、誰にも聞こえぬように舌を打つ。
被験者に未来があれば、彼らはいつしかそう結論づけるはずだ。レプリカ技術が世界を救ったと。ジェイド・バルフォア博士の名は救世の英雄として知られて。
──本当に、くだらない。
「ルーク、貴方がそう言うのでしたら。…私たちは、ここで、待っています」
「…ん」
身体をぶるぶる震わせ、苦しみに一人耐えているような顔のガイと、辛そうに顔を曇らせるジェイドにも小さく笑みを向け、ルークはミュウとともに彼らに背を向けた。
真っ直ぐにレムの塔へと進み、入り口を潜る。扉が音を立てて閉まるのを、待つ。
背中に、ティアたちの追い縋るような視線を感じたが、ルークは振り向かなかった。否、振り向けなかった。
──顔には既に、彼らを嘲る歪んだ笑みが浮かんでいたからだ。
扉が、閉じる。
「…ああ」
清清、した。
ルークは笑みを浮かべたまま、昇降機に向って歩く。鼻歌すら零したくなるほど、浮かれている自分に苦笑する。ミュウもルークの笑みに笑顔を浮かべ、しっかとしがみついてきた。
本当に一緒に行くのか、と問いかける。ミュウは当然だと言わんばかりに深く強く頷いた。
やっと彼らから離れることが出来た。たったそれだけのことで気分が驚くほど、軽い。弾んだ気持ちのまま、軽い足取りでルークは昇降機に乗り込む。
ウイィィン、という音とともに昇り始めた昇降機の中で、腰に提げたローレライの剣を見下ろし、鞘をコン、と手の甲で弾く。
ああ、もうすぐだ。もうすぐこの薄汚い地上に別れを告げることが出来る。
被り続けてきた仮面も、もういらない。瞼を塞ぎ、唇を閉じ合わせ続けてきた糸が、するすると解けていく。喉奥が震えるような笑い声が、緩んだ唇から漏れる。
昇降機で昇ったレムの塔の天辺でルークを待っていたのは、レプリカたちだった。その中から一人のレプリカが、ルークのもとへと歩み寄ってくる。
緑の髪を靡かせ、不敵な笑みを浮かべているシンクに、ルークはにっこりと心からの笑みを向けた。紫色の瘴気の空の下に在るとは思えぬほどに、華やかな眩い笑みを。
シンクもまた晴れやかな笑顔を見せ、待ってたよ、とルークを迎えた。
「あいつら、ついて行くって言わなかったの?」
「最後まで見届ける義務があります、とか言ってたけど、みんなを巻き込みたくないんだって言ったら、だーれもついて来なかったぜ。あなたがそう言うのでしたら、とか、俺の意志を尊重するみてぇなもっともらしいこと言ってたけどな。俺についてきのは、ミュウだけだ」
「ボクはご主人さまとずっと一緒ですの!」
「ハッ、何だかんだ言って、結局、我が身が可愛いってことじゃない。超振動で分解されたくないってことでしょ」
愉快だとケラケラ笑うシンクに、ルークも腹を抱えて笑う。まったくだよなぁ!と二人、同意の笑いだった。
静まり返ったレプリカたちの中で、彼らよりも数年、長く生きてきたレプリカ二人は鮮やか過ぎるほどに表情豊かに笑う。
二人の笑い声を聞いているのは、感情がまだ育っていないレプリカたちと、主人を慕い、主人を傷つける被験者に憤るチーグルの仔だけだった。遥か地上にいるティアたちには聞こえない。
「あいつら、どんな顔するかな」
「俺が瘴気中和に失敗したって怒るんじゃねぇの。その後、どうするか見ものだな」
「アッシュを犠牲にするんじゃないの?…ああ、でも鍵もなくて、レプリカもいないんじゃ、瘴気の中和なんて無理かな?あの死霊使いが何か考えるかもしれないけどね」
「一万人の第七音素師を集めたりとかな。はは、楽しみだ。高みの見物と行こうぜ、シンク」
目尻に浮かんだ涙を指で拭い、ルークがス、と天を指す。まさに高みだね、とシンクが愉快そうに笑う。こんなに笑ったのは生まれて初めてだと、息を乱す。
ルークはぽん、とシンクの肩を叩き、腰の剣を抜いた。剣の形をした、鍵を高々と掲げる。
「こいつが、俺たちの自由への鍵だ」
ローレライの剣は、宝珠が嵌められた完全な形で、ルーク一人にローレライから届けられた。ローレライの真の言葉が届いたのも、ルーク一人にだけだった。
アッシュへと届けられたのは、被験者たちを騙すための言葉だけ。ヴァンに捕まってしまった。瘴気を『鍵』を使って中和し、私を解放してくれ。ルークが動きやすいよう、そんな言葉だけをローレライはアッシュに送った。
完全な『鍵』と真実の言葉は、ルークのもとだけにある。
「この醜い世界に別れを告げて、俺たちの世界に旅立とう」
お別れだ、被験者ども。人間たちよ。
中には人のいい被験者もいた。出会っていない被験者の中には、レプリカだろうと差別することなく接してくれる者もいるかもしれない。
けれど、自分は信じる心を捨てた。信じようと思える心を捨てた。一縷の希望ですら、無残に踏み躙るしか能のないティアたちに、絶望したから。信じる心なんて、持てなくなった。
被験者が滅ぶことに、何の良心の呵責も覚えない自分に、ルークは苦笑う。
やっと、終われる。
ぽつりと呟き、朱色の髪の青年は安堵の表情で鍵を塔へと突き刺した。
──焔が、立ち上った。
*
塔を見上げていたジェイドたちの目を、眩い光が焼いた。レムの塔の天辺で燃え上がる焔に、誰しもが息を呑む。
焔はゆらゆら揺らめいたかと思うと、天に向って立ち昇っていった。迷いなく、紫色の瘴気に覆われた空へと向っていく。
幾千の光を内包し、昇っていく。
「…ルーク」
すぐ側で、ガイが呟いた。ジェイドは眼鏡越しに赤い目を細め、ただただ魅せられたように焔を見つめ続ける。
あれは、本当に超振動によるものなのだろうか。あれは、瘴気を中和する光なのだろうか。
ごくりと唾を飲み、光が収束するのを待たずに、ジェイドは塔の入り口に向った。嫌な予感が拭えないのは、何故だ。
大佐、とティアが後を追ってくる。ガイたちも続いてくるのをジェイドは背後に感じた。
レムの塔に入ると、昇降機は上がったままだった。昇っていったルークが降りてきていないのだから、それも仕方がないが、思わず、軽く舌打ちを零す。
階段を上り、上まで辿り着くには、時間も掛かれば、骨も折れそうだ。だが、立ち止まっていても何にもならない。
階段に足を掛け、ジェイドは一心不乱に昇っていく。向ってくる譜業兵器に苛立ちを募らせながらも、ひたすらに上を目指す。
そうして、やっとの思いで辿り着いたレムの塔の最上階。
そこには、何もなかった。文字通り、何も、何一つ。
「ルークは…消えちまったのか…?」
「そんな、ルーク、ミュウ…ッ」
悲しみに打ちひしがれるガイやティアを横目に、ジェイドは眉を顰め、周囲を見回した。──瘴気は、消えていない。中和されていない。
一万人のレプリカとルークの犠牲をもってしても、瘴気の中和は為されなかったということか。
いや、そればかりか。
「…鍵が、ありません」
ローレライの剣と宝珠。二つが合わさった『鍵』が、どこにも見当たらない。
ルークがいた痕跡も、レプリカたちがいた痕跡すらない。すべてが綺麗に消え去っている。瘴気を残して。
「ルーク、失敗しちゃったんですか、大佐ぁ」
立ち込める瘴気への嫌悪に顔を歪め、アニスが首を傾いでジェイドに訊ねる。ジェイドは眼鏡を押し上げ、そのようですね、と頷いた。
途端に、アニスの顔に失望が広がる。よくも悪くもアニスは素直だ。ルークの死を悼むよりも、ルークの失敗を憤っているのが、表情からよくわかる。すぐに顔を伏せ、肩を震わせ始めているが、それが怒りによるものか、悲しみによるものか、ジェイドは判断に迷った。
「そんな…。ルーク、なんて可哀想な。…大佐、どうにかなりませんの…?」
不安げに、ナタリアが両手を胸の前で組んでいる。どうにかならないのか、というのは、どちらにたいしてだろうかと、ジェイドは内心、苦笑う。
ルークを救うことは出来ないのかと問うているのか、それとも、瘴気をどうするのかということか。
前者であれば、今更だ。彼女は結局のところ、被験者であるアッシュを選び、レプリカであるルークが犠牲になるのを選んだのだから。
「とにかく今は、報告のためにもダアトに戻りましょう。陛下たちも待っているはずです」
ジェイドの指示に、全員が頷き、レムの塔を後にした。
ジェイドは一人、空を見上げ、ルーク、と小さく呟いた。
*
「で、次はアッシュに瘴気の中和をさせるのか?」
一連の報告を聞いたピオニーの言葉に、その場にいた全員がぎくりと身体を強張らせた。ルークに為せなかったのだ。ならば、被験者であるアッシュが超振動を用い、瘴気を中和するしかない。違うのか、とピオニーが目を細める。
ナタリアが顔を蒼ざめさせ、首を横に振った。
「そんな…アッシュにはローレライを解放させるという役目がありますわ!瘴気の中和をさせるわけにはいきません!」
ナタリアの叫びに、ピオニーが白けた目を向ける。冷めた目に、ナタリアがぴくりと肩を震わせ、ぎっ、とピオニーを睨んだ。
断固としてアッシュを犠牲にはさせないと、その緑の目が言っている。
ジェイドはそんなナタリアにゆるりと息を吐き、口を開いた。
「少なくとも解放は、もう出来ません」
「どういう意味だ、ジェイド」
「ローレライの鍵も、一万人のレプリカとともに失われました。ローレライの解放には、あの鍵が必要です。ですが、鍵は見つかりませんでした」
「解放は、と言ったな。中和なら可能なのか」
「…鍵には音素を収束させる力がありましたし、ルークが超振動をコントロールするためにも中和に用いたのですが、他に譜業で音素を収束することは可能でしょう。アッシュは超振動をコントロールすることは出来るようですし」
「ふぅん。なら必要なのは、あとはなんだ」
ピオニーの問いかけに、口を噤む。相手は幼馴染であろうと、自分が仕えている皇帝だ。臣下として、問いに答えねばならない。
けれど、ジェイドは自分が口にせねばならない答えが、恐ろしかった。己の犯した罪の重さに、押し潰されてしまいそうで、恐ろしい。
ジェイド、とピオニーが苛立ちに満ちた声を放つ。ジェイドは震える息を吐き出し、躊躇いがちに舌を動かした。
「一万人のレプリカに相当する第七音素があれば…アッシュの超振動でそれを分解し、瘴気の中和をすることが出来るかもしれません」
「一万人の第七音素師を集めろ、ということか」
「……」
「何か他に考えがあるようだな」
蒼い視線が、鋭くジェイドに突き刺さる。喉が渇き、舌が粘り気を持ったように、うまく回らない。
ジェイドはどうにか溜めた唾液を飲み込み、ピオニーへと顔を向けた。惑うばかりのインゴベルトを横に、悠然と構えたピオニーの顔からは、何を考えているのか読み取れなかった。
「フェレス島のレプリカを用いれば、可能かもしれません」
「なるほど、島のレプリカとなれば、一万人──いや、それ以上に相当するか。ふん、で、ジェイド。お前、そのことにいつから気づいてた。一万人のレプリカを犠牲にせずともすむ、その道にいつから気づいていたんだ」
シン、とその場が静まり返った。その場にいた全員が息を飲み、ジェイドを見つめている。
ガイが拳を震わせ、ジェイドに向って、一歩踏み出した。が、ジェイドへと辿り着く前に、ピオニーの鋭い一声にガイの足が止まった。
「下がってろ、ガイラルディア。お前一人に被害者面はさせん。ここにいるのは、全員、共犯者なんだからな」
どういう意味だと、ティアたちが立場も弁えず、ピオニーに咎めるような視線を向ける。ピオニーの口の端が歪み、嘲笑が浮かんだ。
自身とジェイドたち全員に向けた嘲笑だった。
「俺たちはここで瘴気の中和に関して、話し合った。防音設備も何も整ってないような、この場所で」
ハッ、とジェイドは顔を上げ、ピオニーを見つめた。そうだ、と言うように、ピオニーが苦々しい顔で頷く。
考えずとも、わかるようなことだった。わかって当たり前のことだった。
世界は今、未曾有の危機に晒されている。人々は命の危機に晒されている。明日をも知れぬ恐怖と、戦っている。
そんな恐慌状態で、助かる希望があるのだと知れば、それを知った者たちは。
「俺は愚かにもルークに逃げてもいいなんて言ったがな。逃げられるわけなんてなかったんだと、広がっていく噂に気づいたよ。逃げたところで、ルークはすぐに捕まったはずだ。今じゃ、世界中の人間が知ってるんだからな。ルークが超振動を使って、瘴気を消せるってことを」
そして、今は、アッシュもまた消せることを人々は知った。この噂も、すぐに広まっていくだろう。
キムラスカでは、アッシュを差し出せと民が王に迫るに違いない。アッシュに瘴気を中和させろと、責め立てるに違いない。
ははは、とピオニーは短く乾いた笑いを零し、髪をかき上げた。
「俺たちは誰一人、逃げられやしないのさ」
「……フェレス島の所在を確かめます」
「ああ、そうだな。見つかりゃいいが。…さて、インゴベルト王。貴方はどうされる」
アッシュを差し出すか、否か。そんなことは許さない、とナタリアが一人、叫ぶ。ナタリアの噂も、広まっていくだろう、とジェイドは教会を後にしながら、思う。
キムラスカの王女は己の恋人惜しさに、民を犠牲にする非情で身勝手な王女だと、広まっていくだろう。
「……」
教会の外に出たジェイドは、瘴気塗れの空気を、肺一杯に吸い込んだ。こんなことをしたところで、瘴気障害が発症するのが早まるわけではないが、一種の自傷行為に近い行動かもしれないと自嘲が漏れる。
一万人のレプリカ。己の過去より生まれた罪の象徴のような彼らを、疎ましく思っていなかったといえば、嘘になる。けれど、一方で。
(いや、言い訳に、過ぎないですね)
生き残ったレプリカたちの立場が、彼らの犠牲によって向上するはずだと思ったのだ、などと言ったところで、何にもならない。
己の罪を正当化する、くだらない言い訳にしか聞こえない。
「──ああ、そうだ」
もう一つ、超振動を発生させる方法があることを言うのを忘れていた。言えば、ますます自分の立場が悪くなるのは明白だから、無意識のうちに口にすることを恐れてしまったのだろうか。
私はつくづく救いようのない男ですね、とジェイドは昏く顔を翳らせ、踵を返し、教会に戻った。
*
軟禁されているキムラスカ王城の一室で、アッシュは澱んだ日の光が差し込む窓を見やった。椅子から立ち上がり、窓へと近づく。
窓には鉄格子が嵌められ、開けることも出来ない。外の空気に触れない日々が、これで何日続いただろうか。両手の指では足りなくなったあたりで、数えることを止めてしまったから、今ではわからない。
「…これは、復讐なんだろうな」
小さく、アッシュは唇を歪める。レプリカを蔑み、家畜同然に扱い、搾取することを当然とした被験者への復讐。
それが、今のこの決して消えることのない瘴気なのではないだろうか。
「……」
格子に触れ、アッシュは目を細める。超振動を使えば、壊して、ここから出ることは容易い。
だが、城から出たところで、自分に帰る場所などなく、居場所もないのだ。あると信じていた温かな場所は、幻想に過ぎなかったのだから。
こつん、と額を窓にぶつけ、外を睨む。王城の遥か下では、今も民が瘴気に苦しんでいるに違いない。瘴気は薄くなるどころか、日々、濃さを増していく。
対策が取られていないわけではないことは、アッシュも知っていた。けれど、そのすべてが失敗に終わっていることも、知っていた。
レムの塔に集まっていなかったレプリカも、ルークとともに世界中から消えたというのに、何故か、残されたフェレス島のレプリカで、瘴気中和の計画が一つ、進行された。
フェレス島のレプリカの第七音素を使い、擬似超振動を発生させて瘴気を中和する計画だ。擬似超振動を発生させるための装置には、ティアとナタリア──ユリア・ジュエの子孫とキムラスカの王女が繋がれた。
表向きには、彼女たちは世界を救うため、その命を捧げたと美談として語られている。実際には、ティア・グランツの公爵家襲撃を始めとする数々の罪と、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアの謀反と取られてもおかしくない王命に逆らった行動の数々を隠蔽するためであり、また、求心力が急激に衰えていくダアトとキムラスカ上層部への国民の支持率を回復させる目的もあった。
──結果は、失敗だった。擬似超振動は発動し、フェレス島も消えたが、瘴気は中和されなかった。ただ犠牲者が増えただけだった。ティアとナタリア、そして、装置の起動のためにフェレス島に残り、ともに消え去ったガイとアニスの四人の。
「……」
その類稀な頭脳故に、ルークの同行者で一人残ったジェイドは、今も瘴気中和のための研究を不眠不休で続けていると聞いている。
六神将であったディストも捕まえ、ともに働かせているという噂も兵たちから聞いた。
すべては徒労に終わるだけだと、アッシュは空を見上げる。瘴気で霞んでいたが、音譜帯が微かに見えた。
(すべてはきっとあいつの手のひらの上だ)
ころころと、自分たちは面白おかしく転がされているだけ。そんなふうに、アッシュには思える。
フェレス島が残されていたのも、希望を与えておきながら、さらなる絶望をもたらすためではなかったのか。
ナタリアたちの最期はどうだったのだろう、と目を閉じ、考える。推測にしか過ぎないが、ティアとナタリアはきっと抵抗しただろう。理不尽だと喚き、最後には薬でも打たれて装置に繋がれたのかもしれない。
ガイやアニスも、装置の起動のためというのは、おそらく偽りの情報だろう。ガイラルディア・ガラン・ガルディオスがガイ・セシルであったことや、アニスがモースのスパイであったことやイオンの死亡に関わっていることが公のものとならぬよう、始末したのではないか、とアッシュは考える。
すべては、この頭で考えただけのことだから、証拠があるわけではないが。考えることしか出来ない己の身が、呪わしい。
「ローレライ、お前はそこにいるんだろ?」
アッシュは、気づいていた。ローレライが既に地上から消えていることに。ローレライが何か言ってきたわけではない。それでも、気づいた。ローレライの力の欠片を生まれ持った身として、ローレライが解放されたことに、アッシュは気づいた。
このことは、まだ誰にも言っていない。気づいているとすれば、ローレライを取り込んだと信じていたヴァンくらいだろう。今頃、ローレライにしてやられことに怒り狂っているか、或いは、もう死んでいるか。
生きていたところで、きっとヴァンの先は長くない。
だが、ヴァンの望みは叶ったも同然だと、アッシュは低く喉を鳴らして笑う。預言に詠まれぬレプリカの世界。それはきっと間近に迫っているのだから。
「俺たちは──被験者は滅ぶしかないのか」
ローレライ、とアッシュは呼びかける。返事はない。ルークと回線を繋ごうとしても、糸は途中で切れてしまって、繋がらない。
じわじわと、じわじわと、瘴気は人を侵し、大地を汚していく。助けてくれ、と乞う民の声が、聞こえてきそうだ。自分の世話を任せられたメイドや兵士も、この部屋を訪れるたびに、いつも物問いたげに自分を見ている。
その目には、縋る色があった。責める色があった。『聖なる焔の光』の被験者ならば、助けてくれ。助けろ、とそんな色が。
「…やれるものなら、やってるさ」
だが、足りない。瘴気を中和するに足る第七音素が、不足している。
もっとも、レプリカのフェレス島のような潤沢な音素を持つ何かがあったとしても、結局は失敗に終わるだろう、とアッシュは確信していた。
第七音素はローレライの音素。ローレライが協力をするつもりが欠片もないのに、成功するわけがない。瘴気中和の直前で、第七音素を地上から奪うことくらい、ローレライには容易いはずだ。
それでも、いずれ自分は超振動を使うことになるだろう。たとえ、失敗するしかないとしても、キムラスカは少しでも民を抑えるためにも、自分を生贄にするしかない。
「…はは、は」
レプリカを憎み、レプリカを嘲り、レプリカを従属させようとした、自分を始めとする被験者。
何故、誰も気づかなかったのか。可笑しくて仕方がない。
アッシュは紅い髪を振り乱し、狂ったように、笑う。
レプリカは第七音素のみで構成されている。彼らは言わば、ローレライにとって子どものような存在だったのだ。それを自分たちは。
「傲慢なのは、思い上がっていたのは、俺たちだ」
世界は──被験者の世界は、滅びる。
そして、始まるのだ、レプリカたちの世界が。
握った拳を、アッシュは鉄格子に叩きつけた。ビィン、と格子が震える。
「今頃、音譜帯ででも、高みの見物でもしているんだろうな」
なぁ、レプリカ。
青白く頬もこけ、色濃い隈が浮き、目が落ち窪んだ顔を空に向け、アッシュは歪んだ笑みを零し続けた。
瘴気の奥に垣間見える音譜帯で、愉快そうに笑うルークの顔が見えた気がした。
END
いろいろ詰め込んでいったら、シンクの出番が減りました(汗)
被験者は滅亡エンド。
月さんに楽しんで頂ければ何よりです。