月齢
女性向けブログ。ネタ語りや小説など。ルーク至上主義。
ED後。アシュルク。
ルークのことを忘れて戻ってきた、アッシュの話。
同行者たちも、一応、それぞれ成長してます。
今回の話にはガイとナタリアしか出てきてませんが。
ナタリアは為政者としては成長しているイメージです。
ですが、厳しめ。
注!ナタリア&キムラスカに厳しめ
さよなら、と自分とよく似た声が言った。
忘れていいよ、忘れて欲しい。
──ああ、なんて残酷な我が侭だ。
*
城の窓から、音譜帯の浮かぶ空を見上げ、ルークはこめかみを押さえた。紅い髪が指に絡み、さらりと揺れる。
青い空を見上げていると、頭痛がした。それでも、見上げずにはいられない。
頭はずきずきと痛んだが、安らぎも覚えたからだ。不思議だと、ルークは目を細める。
何故、自分は痛みと安らぎを同時に覚えているのだろう。あそこに、何があるというのか。
「…また空なんて見上げていますのね」
不快そうなナタリアの声に、ルークはハッと我に返り、振り向いた。金茶の眉を寄せているナタリアが、優美なドレスを纏い、立っている。
厚い絨毯が敷かれた廊下を足早に進んできたナタリアが、するりとルークの腕に自分の腕を絡めた。
ルークの視線が、空から自分へと向いたことが嬉しいとでも言うように、今度は笑顔がナタリアの顔に広がる。
「空なんて見ていたって、つまらないではありませんか」
「…何か、思い出せそうな気がするんだ」
ルークの記憶は、十歳のときに、ヴァン・グランツによって誘拐されてからが、曖昧だった。
それまでのベルケンドで行われた非人道的な実験のことは、よく覚えているのに、と何度、自嘲を零したか、わからない。
けれど、十歳から十七歳になるまでの記憶は、あちこち、欠けているのだ。ダアトで過ごした剣の修行に明け暮れていた記憶もあれば、キムラスカでガイと遊んでいる記憶もある。
二人分の記憶が入り混じったかのように、うまくピースを繋ぐことが出来ない。ダアトでの記憶も、キムラスカでの記憶も、どちらも完全なものではないから、なおさらに。
特に、わからないのは、ここ二年間のことだった。十七歳から十九歳までの記憶が、空白なのだ。何をしていたのか、どこにいたのかも、わからない。
気づけば、タタル渓谷に群生しているセレニアの花畑に立ち、ナタリアやガイたちに出迎えられていた。
自分の紅い髪を見つめ、泣いていた栗色の長い髪の少女も、あそこにはいた。酷く複雑そうな顔をした軍人や、黒い髪を二つに結わえた少女も。
彼らの名前も、知っていた。けれど、ルークには何故、自分が彼らをよく知っているのかまではわからず、戸惑いの中、名を呼べたのは、ナタリアとガイだけだった。
ナタリアがどこか勝ち誇ったような、歓喜の笑みを浮かべていたのを、覚えている。
「…思い出す必要など、ありませんわ」
強張ったナタリアの顔に、ルークは瞬いた。記憶の話をするときは、いつもこうだ。
ナタリアは、思い出さなくていい、と言う。特に、完全に失っている二年間の記憶のことを。
腕に食い込むナタリアの爪に、ルークは眉根を寄せた。
「ナタリア、だけど、俺は」
「ルークは、私との約束を覚えてくれていますでしょう?」
「あ、ああ。…この国を変えようという約束だろう?」
「ええ、それだけ覚えていてくだされば、十分ですわ」
にっこりと、ナタリアが笑う。
けれど、若草色の瞳の奥に、優しさではなく、妄執のような暗い煌きが覗いていて、ルークは居心地の悪さを覚えた。
ナタリアは、明らかに自分に執着している。だが、それが恋心ゆえだとは、ルークには思えなかった。
「さ、ルーク。私の仕事を手伝ってくださいな。あなたのためにも、なりますし」
「…ああ、そうだな」
ぐい、とルークの腕を引くナタリアの力は強い。それも、執着の表れに思え、空恐ろしくなる。
ナタリアが、インゴベルト王の実子ではなかったことは、ルークも聞いていた。だからこそだろうか、とルークは思う。
王女としての地位を磐石のものとするために、赤い髪に翠の目の紛れもない王族の血を引く王位継承者である自分を、望んでいるのだろうか、と。
ナタリアは民からの信望も厚く、それに応えるべく、日夜、努力はしているが、血筋を重んじる貴族たちの間では、人気は薄い。
(考えすぎなんだろうか)
ナタリアが、打算だけで自分を愛しているのだと、言っているとは、ルークも思っていない。ナタリアには、確かに、自分への愛がある。
ならば、それでいいのかもしれない。政治的な思惑だけの打算だらけの結婚など、貴族にとって、珍しいことではないのだから。
──けれど、ルークの心には、引っかかるものがあった。
ナタリアの話に相槌を打ってやりながら、ナタリアに気づかれぬよう、ちらりと空を見やる。
青い青い空。そこに浮かぶ、音譜帯。何故、あれが、こんなにも気にかかるのだろう。
(…俺は、何を忘れているんだろう)
何か、大切なものがあったような気がして、ならなくて。
失った記憶は、ルークを苛んでいた。
*
「アッシュに会わせてくれないか」
ナタリアを探し、城の中をさ迷い歩き、裏庭にまでやって来たルークは、聞こえてきた声に足を止めた。それは、ガイの声だった。
顔を上げれば、そこには少しばかり開いている窓がある。確か、応接室の窓のはずだ。
メイドが掃除を終えたあとに、窓を閉めるのを忘れたのだろう。この応接室は、商人や職人といった平民とではなく、貴族と会うために使われる部屋であるはずだから、本来ならば、そのメイドは懲罰ものだろうが、今は助かった、とルークは、褒められた真似ではないことを承知で、窓の下に立ち、気配を消した。
アッシュ、とガイが呼んだ名前が、気になったのだ。
あのとき、セレニアの花畑に立つ自分を、ガイはそう呼んでいた。そして、すぐにナタリアに睨まれ、辛そうに、首を振っていた。
「おかしなことを言わないでくださいな。ここにはアッシュなんて方はいませんわ」
「…ああ、そうだったな。君やこの国は、そういうことにしたんだったな。なら、言い直そう。ルークに会わせてくれ」
ころころとガイを馬鹿にしたように笑うナタリアに、ガイが静かに答えるのを聞きながら、ルークは視線を落とした。
黒い土の上を、蟻が這っている。
けれど、見開かれた翡翠の目は、何も映してはいなかった。
(…どういう、意味だ)
自分は本当はアッシュという名前なのだろうか。だが、記憶の中の自分は、ルークと呼ばれている。アッシュと呼ばれている記憶など、ない。
ないはずだ、と自問したところで、ダアトでの記憶が不自然であることに、ルークは気づいた。
キムラスカでの記憶の中では、何度も、ルークと呼ばれているのに対して、ダアトでの記憶の中では、名前を呼ばれたことがないことに。
まるで、名前だけ削ったかのように、抜け落ちている。
ルークは乱れそうになった呼吸を整え、必死で気配を断ち続けた。話の続きを、聞きたかった。
「ルークに会って、どうなさるおつもりですの?」
「話がしたいだけだ」
「ルークには、あなたと話すことなど、何もありませんわ」
「俺は知りたいだけなんだよ、ナタリア。アッシュが、レプリカの『ルーク』をどう思っていたのかを」
心の底の悲しみを搾り出したかのようなガイの声が紡いだ、レプリカという言葉。
その一言に、ルークの心は乱れた。頭が、ずきずきと痛む。空を見上げ、よろよろとふらつきながら、ルークは気づかれぬよう、窓の下から離れた。
背後で、ナタリアが激昂する声が響いている。その名を二度と口にしないでくださいませ!と叫んでいる。
衛兵を呼び出し、この無礼者をさっさとバチカルから放り出しなさい!と甲高い声で喚いているのも聞こえた。
ガイは伯爵位にあり、身分だけで言えば、王女であるナタリアと比べ物にならぬが、ピオニーのお気に入りともっぱらの評判だ。手荒な真似をして、やっと平和が築かれたマルクトとの間に、いらぬ軋轢を生むことになるのではないかと、兵が狼狽している姿が頭に浮かぶ。
声が聞こえなくなるほど、窓から離れる寸前、ガイが大丈夫だと、兵たちを宥め、応接室を出て行くのが聞こえた。
「っ、はぁ」
荒い息を吐き、城の影になり、陽の差さない裏庭の片隅で、ルークは膝をついた。頭を抱え、蹲る。
割れそうに、頭が痛い。
レプリカ。それは何だったろうか。何を意味していたのだろうか。
自分にとって、それは、どんな意味が。
「う、あ」
痛みに耐えかね、ルークは紅い髪を振り乱し、倒れこんだ。土の匂いが、鼻を突く。
頬が土で汚れたが、気にする余裕など、あるわけがなかった。
「レプ、リカ」
声に出した言葉が、痛い。ほろ、と翡翠の目から涙が溢れた。
ぼろぼろぼろぼろ。涙が止まらない。
苦しかった。痛かった。──切なかった。
「……あ」
ごろりと仰向けに転がると、青い空が見えた。音譜帯も微かに見える。
あそこに、行きたい。
不意に、ルークは思った。
あそこに──戻りたい。帰りたい。
「か、える…?」
あんな場所に、人が行けるわけがない。なのに、どうして、自分は帰りたいなどと、思うのだろう。
懐かしいと、愛しいと思うのだろう。
白い頬を涙で濡らし、ルークは震える手を伸ばした。
この痛みの答えは、きっとあそこにある。
『さよなら』
泣きながら、微笑う顔が、頭を過ぎった。
それは、自分と同じで、けれど、違う表情を浮かべる顔だった。
朱色の髪が、揺れている。
綺麗な髪が、揺れている。
「…ーク」
誰の名を呼んだのか、自分でもわからないままに、ルークは意識を失った。
閉じた目から、涙が伝い、土に染みた。
*
夜、港に隠れ、バチカルから、グランコクマへと出港する船に乗り込もうとしている金髪の男を目指して、ルークは走った。
どん、と胸にぶつかり、顔を上げ、僅かに頭まですっぽり覆ったマントを持ち上げる。訝しげに眉を吊り上げたガイの顔に、驚きが広がった。
「お前…」
「話がある」
ガイの腕を掴み、ルークは強引に歩き出した。ガイは抵抗することなく、ついて来る。
ルークが向かったのは、バチカルにある道場だった。キムラスカでの記憶の中で、ここで剣の修行をしていた記憶があったからだ。
道場主にも、話は通してある。
誰もいない道場の中で、ルークはマントを脱ぎ、足元に落とした。
「ア…いや、ルーク、と呼ぶべきなんだろうな」
「そのことで、聞きたいことがある」
「何だ?」
「俺は本当にルークなのか…?」
ろうそくの明かりだけが灯されている道場の中は薄暗かったが、ガイが目を見開いたのはわかった。口元を手で押さえている。呻き声が漏れるのを、防いでいるかのように。
ルークはガイを睨むように、見つめた。
「レプリカとは何なんだ」
「…レプリカは、複製品のことで」
「そんな説明を聞きたいわけじゃないことは、わかってるだろ?お前、レプリカの『ルーク』に会いたいと言っただろう」
「何でその話…ナタリアから、って、聞かされるわけないな。立ち聞きか?感心しないな」
「うるさい、今はそんなことはどうでもいいだろう」
そうだな、とガイは苦笑したが、すぐに表情を消し、俯いた。ガイが口を開くのを、ルークは待つ。
ゆるりとため息を吐き、ガイが顔を上げ、目を細めた。
外で、雷が光る。どうやら、雨が降ってくるらしい。
こんな夜にはお誂え向きだと、ルークは内心、苦く笑う。
「…お前には、レプリカがいたんだ。お前の情報から生み出されたレプリカが」
「……俺の、レプリカ」
「優しい子だったよ。不器用だったけどな。だけど、本当に優しい子だったんだ。…俺は、すぐ側にいたのに、長い間、それをわかってやらなかったけどな」
昏く、ガイが笑う。それは、自嘲だった。
ルークは黙し、耳を傾け続けた。
ごろごろと雷が鳴る音がし、ぽつりぽつりと窓に雨粒が落ち始める。
「あいつは、お前のことが好きだったよ。お前のことを知ってから、お前のことばっかり、あいつは考えてた。どうしたら、お前が笑ってくれるのか、とか、どうしたら、お前が幸せになれるのか、とか。自分の幸せなんて、考えもしないくせにな。自分には幸せになる資格なんてないけど、アッシュには幸せになって欲しいんだって、そればっかりで…」
「…アッシュ」
「ん、ああ。お前はアッシュって名乗ってたんだよ」
目尻に滲んだ涙を払うように、ガイが目を閉じた。深いため息が、その口から漏れている。
アッシュ、とルークは呟いた。ルークという名よりも、耳に、そして、心に、しっくりと馴染む気がした。
ジェイドに、聞いたんだけどな、と続けたガイに、ルークは目を向け、首を傾げた。
「お前、ダアトの記憶と、キムラスカの記憶があるんだろ?それ、うまく重ならないんじゃないか。被ってるはずのない時間が、被ってたり、とか」
「あ、ああ。…理由を知ってるのか?」
「キムラスカの記憶は、たぶん、レプリカの『ルーク』の記憶だ。大爆発とか、言うらしい。被験者がレプリカの身体と記憶を奪っちまうんだと。…いや、この言い方はないか。お前だって、好きで奪ったわけじゃないんだろうしな」
ガシ、と頭を掻き、ガイが辛そうに笑う。
ルークは目を見開き、身体を震わせた。何も、言葉にならなかった。
「お、れは」
「なぁ、アッシュ。お前も、あいつのこと、好きだったか?」
「俺は…」
「…悪い。わかるわけ、ないよな。アッシュだったこと、覚えてないんだもんな」
はは、とガイが短く自嘲を零す。ルークは痛む頭を抱え、呻いた。
がくりと膝を折り、がたがたと身体を震わせる。
脂汗が額に浮かび、頬を伝った。
「アッシュ!」
思わず、と言ったようにガイが叫び、駆け寄ってくる。大丈夫か、と背を撫でてくれる手が温かい。
ナタリアは、思い出さなくていい、と言った。思い出す必要などないと言った。
酷い話だと、ルークは頭を抱えたまま、低く笑う。ガイが怪訝そうに、眉を顰めた。
「なぁ、ガイ。酷いと思わないか、ナタリアを」
「…アッシュ?」
「ナタリアは、ルークには思い出せ、と言ったんだ。約束を思い出せ、とねだったんだ。なのに、俺には、何も思い出すな、と。酷い話だろ。…ひどい、話だ。何もかも」
地を這うように、低く低く、昏く、ルークは笑う。ガイが呆然と瞳を揺らしている。
雨は強く窓を叩き、地面を濡らした。雷が、また光る。
そのときだった。バンッ、と扉が勢いよく開いたのは。
ザッ、と眩い音素灯の明かりが道場を照らし、ガイとルークの視界を焼いた。
兵士たちの間を、侍女に傘を差させ、歩いてくるのは、ナタリアだった。
金色の髪を揺らし、目をきつく細め、近づいてくる。
「迎えに来ましたわよ、ルーク。いけませんわね、護衛もつけずに、夜に城下に下りるなんて。危険ではありませんか」
「……」
「それに、ガイ。あなたもいつまでこの国にいますの?いっそ不敬を働いたとして、その首、跳ねて差し上げたほうが後腐れがないかしら?」
うふふ、とナタリアが華やかに笑う。ガイが悲しそうに眉根を寄せ、顔を逸らした。
ああ、それは正しい判断だと、ルークは哂う。
頭の痛みは、もうなかった。
「さぁ、ルーク。帰りますわよ」
「そうだな、帰らないとな」
「ええ、私たちの城へと、さぁ」
「いいや、違う、ナタリア。俺が帰るのは、お前のいる場所じゃない」
ゆらりと紅い髪を揺らし、ルークは立ち上がった。きらりと、翡翠の目が光る。
ナタリアが顔に険を乗せ、踏み込んできた。ルークを掴もうと伸ばしてきた手を、払う。
「触るな」
「ルーク!」
「違う、俺は、ルークじゃない。お前と約束を交わしたルークは、もうどこにもいない。いや、本当は始めからいなかったんだ。お前が望むような王子様なんてな」
約束を交わしたときのナタリアも、もういない。あのときのナタリアは、きっと本当に純粋に理想に燃えていた。
あの約束のとおり、この国を変えてみせると、と。
けれど、今のナタリアは違う。あの約束を、国のためだけではなく、己のためにも用いている。己が王族であり続けるために、女王となるために、利用しているのだ。
国ではなく、己の地位を守るために。無垢で無邪気な姫は、もういない。ここにいるのは、キムラスカを愛するがゆえに、初恋の相手すらも利用せんとする、計算高い政治家だ。
ナタリアにとって、それが大切なことであるのは、わかっている。血筋を重んじるキムラスカで、政治を動かすためにも、必要であることは。
それはそれでいいけどな、とルークは顔を上げ、唇を歪めた。
「俺はな、ナタリア。国を想うことなんて、もう出来ないんだ。この国が俺に何をしてくれた。絶望を俺に与えただけじゃないか!」
化け物と詰られ、利用され、そして、愛した半身の存在さえも、この国はなかったものにした。
レプリカなど認めないと、今でも、そんな風潮が消えない。上からしてそうなのだ。何故、下が従おう。
ルークは凍てついた目を、ナタリアへと向けた。ナタリアがたじろぎ、後ずさる。
後ろの兵たちも、ルークに呑まれたように、固まっていた。
唯一、ガイだけが、ルークを哀しげに見つめ、己の無力を恥じるように目を伏せた。
「ガイ、あいつは、俺に酷い我が侭を言ったんだ。何だかわかるか?」
「いや、何を言ったんだ?」
ガイへと向けたルークの顔には、笑みが浮かんでいた。『ルーク』への愛がこもった笑みが。
ガイが青い目を瞠り、満足したように、笑った。
その目には、涙が浮かび、頬を伝った。
「さよなら、と言ったんだ。忘れろ、ともな。冗談じゃない。誰が忘れてやるものか」
そんな我が侭、誰が聞いてやるものか。
迷いの吹っ切れた目が、天を向く。そこには天井があるだけだが、ルークの目には見えていた。
空に浮かぶ音譜帯が。そこで泣きそうに顔を歪めている、愛しい半身の姿が。
「俺は、アッシュだ。ルークは、お前一人だ。だから、ここに来い。俺を迎えに来い、ルーク。誰がお前を離してなどやるものか!」
ルーク──アッシュは、呆然と立ちすくむナタリアの横を抜け、兵たちの間を抜けた。
ルーク、とナタリアが唇を震わせるが、アッシュが振り向くことはなかった。
雨を全身に浴びながら、アッシュは顔を上げた。柔らかに目を細め、両腕を天に掲げる。
「ルーク、愛してる」
お前だけを、愛してる。
ぽぅ、とアッシュの両手が光る。ローレライの力の欠片、超振動の光が、天を向く。
ダメですわ!とナタリアが叫ぶ声が、雨の闇夜を切り裂いた。
兵が腰に提げた剣を奪い、アッシュへと向かっていく。ガイが止めようと走ったが、間に合いそうになかった。
「あなたは必要なのです、ルーク!」
渡すものか!
若草色の瞳が、狂気に濁る。剣の切っ先が、アッシュの腕を切り落とさん、と伸びる。
ガイの叫び声が響き──ナタリアの手の中から、剣が分解され、光の粒となって霧散した。
アッシュ以外の誰もが、呆気に取られた。ナタリアの膝が折れ、びちゃりとドレスを纏った姿で地面に崩れた。ナタリアの目からは、力が抜けていた。
「…ルーク」
アッシュの広げた腕の中に、光があった。それは揺らめきながら、形を取っていく。
ガイが雨の中に飛び出し、唸り声を上げた。雨とも涙ともつかない雫が、その頬を落ちていく。
『幸せになって欲しかったんだ、俺は』
声が、柔らかに人々の鼓膜を打った。光は朱色の髪となり、白い頬となり、翡翠の瞳となった。
光を纏ったルークが、アッシュの腕に包まれ、立っていた。
アッシュがルークを抱き締め、呟く。
「お前がいなくて、お前を忘れて、どうして、幸せになれるんだ、この馬鹿が」
『…アッシュ』
「ルーク、なのか…?」
震えるガイの声に、ルークがアッシュの腕の中から顔を向ける。ルークが微笑み、ガイ、と名を呼んだ。
ガイが、鼻を啜り、顔をくしゃくしゃにして、笑う。
「もう二度と会えないって、思ってたよ、俺は」
『…うん』
「はは、旦那や陛下に、自慢しないとな。…なぁ、ルーク。もし奇跡が起きて、お前に会えたら、言おうと思ってたことがあるんだ」
何?と首を傾ぐルークとともに、アッシュはガイを見やった。
ガイが青い目を愛情深く細め、ルークを見つめた。
「誰よりも、お前自身が幸せになれ、って」
『ガイ…』
うん、とガイに負けず劣らず、顔を歪め、頷くルークの頭を、アッシュは撫でた。ガイの言うとおりだと、笑って頷く。
ルークが悲しそうに、ナタリアを一瞥し、アッシュの背に腕を回した。
「じゃあな、ガイ。お前も幸せになれよ」
「ああ。…じゃあな、二人とも」
『…バイバイ、ガイ』
ルークと、小さく笑みを交し合い、アッシュは足先から自分の身体が光となって消えていくのを待った。腕の中のぬくもりがあれば、何も迷うことはなかった。
この国の未来を、案じる気持ちがないわけではないけれど、いっそ王などいないほうが、この国は変われるのではないかと、力なく俯いているナタリアに思う。
民が自分たちで主君を選べるような国となれば、間違いなく、ナタリアは真の権力を握れるはずだ。そうなれば、本当に思うとおりに、理想を求めることが出来るだろう。
国を見捨て、己の幸せを求めて消える自分を、無責任と罵る声もあるだろう。だが、自分には、この国を愛せない。
ナタリアのようには、熱烈に愛せない。
(結局は、俺も傲慢、なんだろうな)
いつか、でもいいから、ナタリアもまた幸せとなれるように、と身勝手な願いと知りながら、願い、アッシュはルークとともに、音譜帯へと消え去った。
崩れたナタリアの肩に、侍女やガイが優しく労わるように手を掛け、兵たちが傘を差し掛けるのが、アッシュが消え去る直前に見た、最後の光景だった。
END